HELSINKI14|2006


トゥルクの教会付近。

トゥルクのFORUM MARINUM付近。
ダウンジャケットを生まれてはじめて買って着ています。余りの暖かさに少し驚いています。あとブーツも。ヘルシンキは今のところそんなに寒くはないのですが、セールも始まったし、そろそろ北へ向かう準備をしようと思ったのです。
おそらく今年最後のエントリーになるのですが、今年はどんな年になったのでしょうか。修論を提出し、それなりに満足感を得て研究に楽しみを見出し、その後は毎日労働に勤しみ、労働に楽しみを見出し、出国が近づきいろんな人々のありがたさを知り、ヘルシンキにやってきて、海外生活に楽しみを見出し、、、おそらくいい年になったのではないかと思います。
今年の抱負を振り返ると「健康」でした。「健康」の中には「禁煙」が一番大きなテーマと掲げられたにも関わらず、達成出来なかったものの、タバコを吸いながらでも健康で過ごせたのでよかったことにしましょう。
大きな環境の変化があったからか、身近に言葉を扱う職業の人がいるからか、いろんな言葉がやけに響いた年でした。こういう個人的に響いたことをあまり公で言うのもどうかと思うのだけど、せっかく年の瀬なので一つ。
ある女性ミュージシャンのブログでファンがそのミュージシャンに憧れる余りにどうしたらその人のようになれますか、と質問したところ、そのミュージシャンの返答で、
「私になっても面倒な事ばかりでいいことはありませんが、リップスティックをいつも二本持ち歩くことと、10人に1人いるかいないかの理解者を大事にすることです」
という。リップスティックというのと、10人に1人という塩梅がとても素敵に感じました。その逆もしかりなんだななるほどなあ。
なんだか振り返ると心に残っている言葉だったりコメントだったりというのは殆ど「人間とはいかなるものなるぞ」的な哲学的なものばかりです。そういう年頃なんですかねえ。
今年も一年ありがとうございました。よいお年を。

HELSINKI13|本、人


rautatientoriに出来たスケートリンク。僕も事務所のみなさんとスケートをしてきた。ボスたちはアイスホッケーをやっているし、同僚のオランダ人も毎日冬はスケートで学校に通っていたんだ、と自分以外はプロ級。六歳の時以来やっていない自分はヘルメットをつけて挑戦するも無理すぎる。いろいろ教わったのですが、I know what you say, but I can’t do that! などと叫びみなにしがみつく。手すりもないしさ、、、周りの視線が痛かった。たくさん写真はあるが、アップ出来る代物ではありません。
*久々に少し本を読みました。日本から持ってきた本はガイドブックの他にはロンドンで友人にもらったタニサキの「陰翳礼讃」と、柳田国男の「遠野物語」です。後者は海外に来られる方にはお勧めです。いろいろはっとさせられる文章が多いです。というか日頃の立ち居振る舞いを考え直させられます。笑っている場合じゃないね。

だから今日の定義としては、ヱミはむしろ人生の渇油、殊に女がこの世を平穏に、送ってゆけるために具わった自然の武器と言った方がよい。そうするとこの点においても明らかに、また一つのワラヒとの差別が見出されるのである。笑いは最も多くの場合において、笑われる者の不幸を予期している。刃物では傷つけない一種の闘諍、または優劣の露骨な決定を免れ難い。今まではそれを避けるためにできるだけ縁の遠い、笑われても構わぬものを捜してはいたが、結局は笑う者自らを孤独にすることは同じであった。笑って世の中を明るくするというのは、手近にまだ笑われてもよいもののいる間だけである。そういうものを極度に少なくするのが永い間の人間の努力であった。幸いにして我々は、ヱガホがその笑いの先触れでも準備でもなく、むしろその反対に、笑うまいとする慎しみの一つであることを知った。ただその中には受け身のものと働きかけるものと、または自分一身のためにするものと、人を考えて何物かを与えようとするものと、二種の価値段階があることは争えないのである。[柳田国男、女の咲顔「遠野物語」集英社文庫、1991]

*もうすぐ、人生の中でも少なからず影響を受けた方がヘルシンキにやってきます。知識人っていうのはこういうものなのか、こうは絶対になれない、と本当に思った人の一人。教えてはくれないのだけど、知識の扱い方、建物の見方、外国での立ち居振る舞い、メールの打ち方、ご飯の食べ方、お酒の飲み方を見せてくれた人。出会っていなかったら、もっといろいろな建築だったり美術に素直に感動していたのかもしれない。しかし本当の事を知っている。僕も今では本当の部分を知りたいと思うようになった。フィンランドについても尋ねたい事が沢山ある。が、しかししかししかし、、、さてさてどうなることやら、、、

HELSINKI12|休み、労働、建築写真


ヴィートゥレスク(エリエル=サーリネン、アルマス=リンドグレン、ヘルマン=ガゼッリウス、1903)
知人にお誘い頂いて訪れた。中世から(日本だったら近世か)近代へ向かう時代の20世紀前後の建築はいつ見てもどこの国でもちょっと不思議で楽しくて好きだ。

エスプラナーディのクリスマスマーケット。幾つか購入。意外と安い。

Kamppiの中の寿司屋。味噌汁2ユーロはなしですぜ。

働いている事務所。

オリンピックスタジアムの中で行われた秘密(?)のパーティーの時に撮影した展望台からのヘルシンキの街並み。
*いつも少しだけ手伝っている(でも奥付に名前が!)エクスナレッジのHOMEの「建築写真」特集が届きました。まだパラパラとめくっただけですが、本の臭いが少し日本を思い出させました。
*前半のセメスターが終了して、冬休みに突入しましたが、ここぞとばかりに毎日労働をしていて学校があったときより忙しい感じです。しかし「外国で働いてみる」というのは一つの成し遂げたかった目標だったので毎日新鮮です。またとても楽しい事務所に出会えたのも本当に幸運でした。
*ところでフィンランドに来て建築の作業をして最初に感じたことは標準化のこと。
ツールに関してだったら、今や多くの国で同じCADなんかの設計ツールが使われているし、理念についてもヨーロッパやアメリカなんかの先進国で学ぶ建築の人たちは、つまり建築について「面白い」というのはこういう事で、それはプリミティブなものも含んでいると思うのですが、だからそうする、というある理念を共有している。今だったらやや言語化されにくいロジックを元に同じツールで作る。ある批評家はそれを「後期バロック」と呼んでいたけれど、日本もその一つでしかなくて、世界の中で建築は、その教育も含めてどんどん均一化されているのかなということを時折感じます。
何も懐古主義的な事を空想するわけではないのですが、それをブレイクスルーする何かが生まれるのだろうか、と考えるとウーンとなってしまいます。
それでも一応やはり国によって差異はあって、それは気候だったり、コモンセンスだったり法律だったりすると思うのですが、特にフィンランドの幾らか堅実な作品や街並みを見ていると、それは古い建物からアールトなんかの近代建築、そして現代建築も含めてですが、何かしらバロック的なもの以外のものもあり得るのかな、なんて考えます。
こんな事を書くつもりではなかったのですが、誤解を恐れず書いてしまいました。
要するに、ヘルシンキに来てからオートキャドとスケッチアップを覚えて、ヘルシンキのお店やバーやあるいは建築の、気取りきれない、でも自然な感じが最近妙に気に入っているということです。

HELSINKI11|映画


ヘルシンキ、Aleksanterinkatuのライトアップ。土曜日深夜に撮ったのであまり人気がありませんが。

課題の途中の様子。
こちらに何を書こうか思案にくれているうちに一ヶ月以上更新が滞るところでした。危ない危ない。
最近はようやく大きな課題が一つ終わったので学内のネットワークを利用して映画を幾つか見ました。ここでの問題といえばやはり言語。日本の映画やアニメーションはいいとして、外国のものはかなり限定されてしまいます。つまり、字幕はフィンランド語が殆どだからです。かといって英語の映画もなかなかみたいものがないし、その前に理解度なんて50パーセントぐらいなんだけどしょうがないですね。ということで英語と日本語の半々になっている、外国人にもよく訪ねられる映画を選んでみています(というかこの二つしかしらない)。
*Lost in Translation, Sofia Coppola, United States, 2003
全く期待していなかったのだけどとても面白かった。外国人の目から見たTokyo、日本人がとてもよく表現されていた。しかし日本人がみるのと外国人がみるのではその受ける印象が大分違ってきそう。日本語が全部分かってしまうから。あと、日本人は完全に人間性を持ったものとして描かれていない点が気になったけど、きっとそう見えるからそうなんだろうな。
*kill bill Vol.1, Quentin Tarantino, United States, 2003
期待していたのだけど、全然面白くなかった。この映画は一体なんなんでしょう???残忍さはいいとしてこのB級感はわざと?エキサイティングじゃないし、ゲームみたいだし、全然きれいでもないし、殺陣の質もひどいし、エンターテイメントでもないし。うーん理解に苦しむ。これまで見た映画の中でもワースト5には入るなあ。