Tokyo09|エヴァとか

*「ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破」をみました。
エヴァを見始めたのは、テレビ版/劇場版ともにリアルタイムではなく、流行った後にまとめてビデオで借りて夢中になりました。
いわゆる熱心なファンでもなかったと思うのですが、今回の「破」は、これまでみたアニメ(そんなに多くないですが)の中でも最高傑作といっても過言ではないと思います。既に映画館に二回見にいきました。
キャラクター設定/戦闘のスペクタクルもそうなんですが、物語の重層のさせ方や切り替え、展開の激しさで観客を一辺に引き込む方法、一方でTV版のストーリーと重複させつつずらしたりしてこちらの期待をいい意味で裏切ったり、とにかくレベルの高い作品でした。日本のクリエーターたちの本当の底力/熱意がなせるわざに深く感服しました。本当にすごい。
合わせて「序」のDVDを買ったのですが、その中で庵野氏はこう語っています。

「エヴァ」は繰り返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意志の話です。
曖昧な孤独に耐え他者にふれるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。

かつてエヴァにはまった人はもちろん、TV版も見てない人もせめて「序」を見てから、是非映画館で見るべき一本です。
>ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序 (EVANGELION:1.11) [DVD]
>ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破 オリジナルサウンドトラック SPECIAL EDITION
Tuesdays with Morrie: An Old Man, a Young Man, and Life’s Greatest Lesson
ALS(筋萎縮性側索硬化症)におかされた老社会学者の教授と教え子が、最期の瞬間まで講義をするという話。家族について死についてお金について、どう生きるかについて、病魔におかされながらも最期まで真摯に向き合い教える感動の物語。英語の勉強にと思ったのですが、平易で読みやすく、そしていい本でした。
*最近twitterなるものをはじめてみました。が、使い方がよく分かりません。IT企業の社長のエントリーばかりで、、、

HELSINKI13|本、人


rautatientoriに出来たスケートリンク。僕も事務所のみなさんとスケートをしてきた。ボスたちはアイスホッケーをやっているし、同僚のオランダ人も毎日冬はスケートで学校に通っていたんだ、と自分以外はプロ級。六歳の時以来やっていない自分はヘルメットをつけて挑戦するも無理すぎる。いろいろ教わったのですが、I know what you say, but I can’t do that! などと叫びみなにしがみつく。手すりもないしさ、、、周りの視線が痛かった。たくさん写真はあるが、アップ出来る代物ではありません。
*久々に少し本を読みました。日本から持ってきた本はガイドブックの他にはロンドンで友人にもらったタニサキの「陰翳礼讃」と、柳田国男の「遠野物語」です。後者は海外に来られる方にはお勧めです。いろいろはっとさせられる文章が多いです。というか日頃の立ち居振る舞いを考え直させられます。笑っている場合じゃないね。

だから今日の定義としては、ヱミはむしろ人生の渇油、殊に女がこの世を平穏に、送ってゆけるために具わった自然の武器と言った方がよい。そうするとこの点においても明らかに、また一つのワラヒとの差別が見出されるのである。笑いは最も多くの場合において、笑われる者の不幸を予期している。刃物では傷つけない一種の闘諍、または優劣の露骨な決定を免れ難い。今まではそれを避けるためにできるだけ縁の遠い、笑われても構わぬものを捜してはいたが、結局は笑う者自らを孤独にすることは同じであった。笑って世の中を明るくするというのは、手近にまだ笑われてもよいもののいる間だけである。そういうものを極度に少なくするのが永い間の人間の努力であった。幸いにして我々は、ヱガホがその笑いの先触れでも準備でもなく、むしろその反対に、笑うまいとする慎しみの一つであることを知った。ただその中には受け身のものと働きかけるものと、または自分一身のためにするものと、人を考えて何物かを与えようとするものと、二種の価値段階があることは争えないのである。[柳田国男、女の咲顔「遠野物語」集英社文庫、1991]

*もうすぐ、人生の中でも少なからず影響を受けた方がヘルシンキにやってきます。知識人っていうのはこういうものなのか、こうは絶対になれない、と本当に思った人の一人。教えてはくれないのだけど、知識の扱い方、建物の見方、外国での立ち居振る舞い、メールの打ち方、ご飯の食べ方、お酒の飲み方を見せてくれた人。出会っていなかったら、もっといろいろな建築だったり美術に素直に感動していたのかもしれない。しかし本当の事を知っている。僕も今では本当の部分を知りたいと思うようになった。フィンランドについても尋ねたい事が沢山ある。が、しかししかししかし、、、さてさてどうなることやら、、、

HELSINKI12|休み、労働、建築写真


ヴィートゥレスク(エリエル=サーリネン、アルマス=リンドグレン、ヘルマン=ガゼッリウス、1903)
知人にお誘い頂いて訪れた。中世から(日本だったら近世か)近代へ向かう時代の20世紀前後の建築はいつ見てもどこの国でもちょっと不思議で楽しくて好きだ。

エスプラナーディのクリスマスマーケット。幾つか購入。意外と安い。

Kamppiの中の寿司屋。味噌汁2ユーロはなしですぜ。

働いている事務所。

オリンピックスタジアムの中で行われた秘密(?)のパーティーの時に撮影した展望台からのヘルシンキの街並み。
*いつも少しだけ手伝っている(でも奥付に名前が!)エクスナレッジのHOMEの「建築写真」特集が届きました。まだパラパラとめくっただけですが、本の臭いが少し日本を思い出させました。
*前半のセメスターが終了して、冬休みに突入しましたが、ここぞとばかりに毎日労働をしていて学校があったときより忙しい感じです。しかし「外国で働いてみる」というのは一つの成し遂げたかった目標だったので毎日新鮮です。またとても楽しい事務所に出会えたのも本当に幸運でした。
*ところでフィンランドに来て建築の作業をして最初に感じたことは標準化のこと。
ツールに関してだったら、今や多くの国で同じCADなんかの設計ツールが使われているし、理念についてもヨーロッパやアメリカなんかの先進国で学ぶ建築の人たちは、つまり建築について「面白い」というのはこういう事で、それはプリミティブなものも含んでいると思うのですが、だからそうする、というある理念を共有している。今だったらやや言語化されにくいロジックを元に同じツールで作る。ある批評家はそれを「後期バロック」と呼んでいたけれど、日本もその一つでしかなくて、世界の中で建築は、その教育も含めてどんどん均一化されているのかなということを時折感じます。
何も懐古主義的な事を空想するわけではないのですが、それをブレイクスルーする何かが生まれるのだろうか、と考えるとウーンとなってしまいます。
それでも一応やはり国によって差異はあって、それは気候だったり、コモンセンスだったり法律だったりすると思うのですが、特にフィンランドの幾らか堅実な作品や街並みを見ていると、それは古い建物からアールトなんかの近代建築、そして現代建築も含めてですが、何かしらバロック的なもの以外のものもあり得るのかな、なんて考えます。
こんな事を書くつもりではなかったのですが、誤解を恐れず書いてしまいました。
要するに、ヘルシンキに来てからオートキャドとスケッチアップを覚えて、ヘルシンキのお店やバーやあるいは建築の、気取りきれない、でも自然な感じが最近妙に気に入っているということです。

留学とか


先の九月から来年の六月までフィンランドにあるヘルシンキ工科大学という所の建築学科で勉強することになった。そんなわけで、そろそろ留学に向けての準備をしている。本当はいろいろと書きたいことがあるのだが、まだ準備の段階で本当に行けるのかまだ半信半疑なので、先走るようなことはあまり書けない。
今の時代はインターネットとかも普及して、海外からいろんな情報を発信している人たちが多くて情報収集という点で本当に便利だと思う。だからといって、海外に行くとはいっても個々人が抱える状況や目的、また能力は本当に人それぞれで、自分と全く同じ、あるいはよく似た情報を提供しているなんて場合は必ずしも多いわけではない。少なくとも自分もやや特殊な状況で留学する(予定)わけで、自分とよく似た状況を抱える人にこういう方法もあるんだ、という一情報を提供出来ればこのブログの存在意義もある気がする。
もっとも、私の場合殆どが「失敗談」なわけで、現在の状況にどうにかこうにか行き着いたので有用な情報が提供出来るとは思えない。失敗に学べ、とはよく言ったものだが、確かに自分にとっては精神論的に学ぶところが大きかったが(苦笑)人がその失敗談を見たところで同情はあるにしろ、じゃあどうすりゃ受かるんだ、となってしまったら、落ちたので分かりません、という他ない。予備校とかの合格体験記と一緒ですね。
いずれにしろ当初の目的である「留学」の一歩手前まではなんとかこじつけた。そんな中で、うまくいった部分、なぜうまくいかなかったか、自戒の念も含めてこれから少しずつ書いていこうと思う。また、リアルタイム的にVISAのこととかも書いていけたらと思う。書くネタもなくなってきたもので、、、
写真はゴールデンウィークにいった小湊鉄道の発着点。土砂崩れのための区間運休で、目的地の大多喜まではいけなかったので乗らなかったのだけど、、、

秋葉原の寒々しさ


続きといっておきながら、またブログを放置してしまった。
以前(ウェブ進化論)の話は、ここで全くまとまらない要約を書くよりかは、もう後はアマゾンとかで目次や解説を見てもらった方が余程よいと思われる。
ともあれ、『ウェブ進化論』を読んでいるとテクノロジーに対する信頼?ではないが、未来に対するポジティブな展望が開けてきそうになってしまうが、ふとした不安感も残る。
人と話していて気づいたのだが、世界中の「知」が急激に再編成されている中で、社会と密接不可分に進化してきた音楽や映画のような娯楽であったり、建築のような文化としての社会的インフラが、その形式や思考もまた大きな変化を余儀なくされている。

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ウェブ進化論


ウェブ進化論(梅田 望夫著、ちくま新書、2006)を読む。
日々進化を続けるウェブの現在形を的確に描いた良著。グーグル、アマゾンと楽天やヤフーの違い、あるいはwikiやブログ、mixiのようなSNSまで幅広く書かれている。
この手の本は、概して自分が感じている事をうまく言った、というものが多いのだが、この本は「へえ知らなかった」ということが要点をついて分かりやすく説明されている。簡単にまとめてみると、、、

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こうじろう


神代雄一郎『間・日本建築の意匠』(鹿島出版会、1999)を読む。
きっかけはある建築家の話を聞く機会を得た時に、「こうじろうさんは~」といっていて、誰だろうと疑問に思っていたので、一緒に聞いていた人に「こうじろうさんて何こうじろうというんですか」と聞いたところ、「え、それも知らないの。神代さんという歴史家が云々」といわれたことによる。
もっとも現在出版されている書物も少ないし、決して有名ではないかもしれない。でもそれは、学術、メディアの両分野の狭間で批評や建築史の在り方を問うた本人の立場の問題であるようだ。
たかだか修士論文を半べそを書きながらようやく乗り越えた自分がのたまうのもおこがましいことは百も承知だが、いわゆる「研究」と「批評」はまったく別次元のお話であることは体験した。研究は事実に立脚した、それも既成の事実ではない「新しい」知見をもとにして、これまで分からなかったことを明らかにすることをそもそもの大前提としている。夏以降、それがネタ、いや「知見」になり得ないことを分かりながらもいろんな分野の「既往研究」を見ていると何が是、何が非とされているかが自ずと見えてくる。つまり作法のようなものが見える。
でも一方で「作法」が、単純な建築の雄大さや良さを伝えることに不適切で、その素晴らしさを語ることは非どころか、タブーの世界に浸ってしまうと、もはや決められた作業を更新していく以外の何ものでもなくなる。逆にいうと不適切な言語が、是として捉えられている以上、作法を踏襲すればそれなりの評価がかえってくる。もっとも、現在ではその不適切な言語が、ある個別の事象を取り上げ積み重ねて論じるには雄弁であるので、ある種の意義は認めなければならない。
そんな意味で日本建築の原理を「九間」に見出し、論を展開した本著は一見ごく保守的な日本建築の歴史を辿っただけのものに見えてしまいそうだが、「意匠論」として希有の積極性をもったものであると感じた。かみ砕いていうと、単純な建築空間の曖昧な素晴らしさを事実に立脚したきちんとした形で表現している。
写真は霧にかすんでみえる出雲大社。