こうじろう


神代雄一郎『間・日本建築の意匠』(鹿島出版会、1999)を読む。
きっかけはある建築家の話を聞く機会を得た時に、「こうじろうさんは~」といっていて、誰だろうと疑問に思っていたので、一緒に聞いていた人に「こうじろうさんて何こうじろうというんですか」と聞いたところ、「え、それも知らないの。神代さんという歴史家が云々」といわれたことによる。
もっとも現在出版されている書物も少ないし、決して有名ではないかもしれない。でもそれは、学術、メディアの両分野の狭間で批評や建築史の在り方を問うた本人の立場の問題であるようだ。
たかだか修士論文を半べそを書きながらようやく乗り越えた自分がのたまうのもおこがましいことは百も承知だが、いわゆる「研究」と「批評」はまったく別次元のお話であることは体験した。研究は事実に立脚した、それも既成の事実ではない「新しい」知見をもとにして、これまで分からなかったことを明らかにすることをそもそもの大前提としている。夏以降、それがネタ、いや「知見」になり得ないことを分かりながらもいろんな分野の「既往研究」を見ていると何が是、何が非とされているかが自ずと見えてくる。つまり作法のようなものが見える。
でも一方で「作法」が、単純な建築の雄大さや良さを伝えることに不適切で、その素晴らしさを語ることは非どころか、タブーの世界に浸ってしまうと、もはや決められた作業を更新していく以外の何ものでもなくなる。逆にいうと不適切な言語が、是として捉えられている以上、作法を踏襲すればそれなりの評価がかえってくる。もっとも、現在ではその不適切な言語が、ある個別の事象を取り上げ積み重ねて論じるには雄弁であるので、ある種の意義は認めなければならない。
そんな意味で日本建築の原理を「九間」に見出し、論を展開した本著は一見ごく保守的な日本建築の歴史を辿っただけのものに見えてしまいそうだが、「意匠論」として希有の積極性をもったものであると感じた。かみ砕いていうと、単純な建築空間の曖昧な素晴らしさを事実に立脚したきちんとした形で表現している。
写真は霧にかすんでみえる出雲大社。